あるアメリカ留学生の徒然なる日々

アメリカ・カリフォルニア在住の日本人大学生が色々さらけ出すブログ

性的指向と思考の話

私は少なくとも、社会が分類するところの性的少数派に属していると自認しています。私の性指向は極めて複雑です。とはいってもおそらく複雑ではない性指向をお持ちのかたの方が少ないように思います。

 

高校時代に私が片思いしていた女の子がある日呟いた一言が私は忘れられないのです。

「人類みんな、バイセクシャルでしょ」

これは私の言葉ではなく引用なので直すことができませんが、おそらく彼女の言いたかったことは、「人間は誰しももともと性別ではなく相手の人間性や見かけなど、別のところに惹かれたり、本来は好きになるのに性別なんて関係なくて、ただ偶然好きになった人が異性/同性だったというだけである」と言うところだと思います。(その場合おそらくパンセクシャルと言ったほうが正しそうですが…)

赤ちゃんも生まれたばかりはどの言語を話すことができる可能性を持っているけれど、成長と経験によって使用言語が絞られていく、と言う原理に若干似ているような…(違うかな?)

 

性的指向はその人のたくさんあるうちの一面にしかすぎない

だから自分から語るのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。

女の子が好き、と言っただけでレズビアンキャラが何より先に出て、「私」という一個人ではなく「レズビアン」と言う団体の代表もしくは数学的に言えばサンプルとして見られてしまう。

レズビアンという「キャラ立ち」はするかもしれませんがその他の私の側面を見てもらえなくなるような気がして…

それだけでなく、「自分の意見=レズビアン全員の意見」として見られてしまいそうで口をつぐみました。

今でも、私は、性的指向なんてその人のたった一部にしかすぎないと思います。みな性的指向の他にもそれぞれの個性があるはずなのです。

それなのに、私が意見をすると、「彼女はレズビアンであったとこがこのような考えに導いたのだろう」と言われるのです。

人は通常と少し違った特徴を持つ人の全てを、その特徴に帰因しがちなのです。(もちろん、私もそういう嫌いがあります。直していかなければなとは思っています。)これは性的指向に限った話ではありません。たとえば私の友人の例ですが、彼女は2人姉妹でしたが、彼女がまだ小さい頃にお姉さんを事故で亡くしています。

彼女はその後、高校時代に少しグレました(と言っても、校則違反のピアスを開けたり髪の毛を染める程度)。反抗期の延長みたいなものでした。しかし他の友人には「彼女があんなにグレたのは、やっぱりお姉さんが死んだからだ。かわいそうに。」と考える人も少なくありませんでした。

彼女がお姉さんを失ったことと、彼女がグレたことの因果関係は実際のところ彼女しかわからないのです。それを外野が勝手にお姉さんの一件に全てを結びつけてしまうのは、彼女のその他諸々の人生経験の存在を否定しているような気がして私は好むことができません。

 

他の人とある一点で違う、ということは、その人の他の点も「普通の人と違って特別」に変えてしまうのでしょうか?なんだかそれは暴力的な気がします。そして、勿体無いのではないでしょうか?