あるアメリカ留学生の徒然なる日々

アメリカ・カリフォルニア在住の日本人大学生が色々さらけ出すブログ

努力の才能の話

久々の更新です。学期末テストのためにブログを書かずにいました。ようやく夏休みに突入したのでのんびり更新したいと思います。

              今回の話は読む人を選ぶといいますか、快く思われない方もいらっしゃると思うので自己責任でご閲覧ください。(私のクズっぽい考え方の話とエピソードなので)

今回の期末考査期間中、私は本当に勉強に集中できませんでした。理由は様々でした。単純明快なものから、よくわからないままに心の中でモヤっとしているものまで。その中で、高校の時の出来事を思い出しました。

              私は、頭は悪くないとは思っていますが、勉強は決してできる方ではないと自分を分析しています。自分の好きなことには脳みそを稼働させることができるのですが、そうでないことにはからっきしダメなのです。

高校時代は、学校の科目で言えば英語が好きでした。科目、言語としての英語はもちろんのこと、会話などにも興味を抱いていたので、学校では英文法を真面目に履修しつつ、家では余暇にアメリカの映画を見て会話表現や発音の聞き取りなどを学んでいました(学ぶと言えどひたすら聞き流すだけだったような気もしますが、なにぶん五年ほど前のことなので…)。

その甲斐あって、学校では、英語に限って見るとなかなかいい成績を収めていたような気がします。母校の先生方曰く私たちの高校の英語はなかなかレベルが高いようなのですが、その中で自由選択含め英語の取れる単位は全て取り、レベル選択は全て一番上のクラスを履修した上で英語の成績は全て5でした。(少し過去の栄光を自慢してしまいました…ごめんなさい笑。)しかしその分、他の科目の成績は散々なものでした。

面談ではいつも先生方に、「ゆとりさん、あなた、英語はこんなにできるのだから他の科目も同じように本気で取り組んでごらんなさいな」と言われてしまうほどでした。両親には姉妹がいないところでは、「姉と妹にもこれくらい英語に力を入れてほしいものだわ」と嘆かれていました。

              しかし当時の私にはわかっていたのです。それは無理な話なのです。

屁理屈と思われてしまうのも承知ですが、私にとって、「努力」というのも才能の一つなのです。私は偶然にも、英語という科目に対して努力をする才能には恵まれました。しかし、他の科目には、英語への努力ほど才能を与えられることはなかったのです。もちろん、誤解しないでいただきたいのは、だからと言って私が他の科目への努力を怠っていい理由には全くなりませんし、諦めて投げやりになっているわけではないのです。ただ、自分ができない、難しいと思うことに妥協点を探すというか、自分のせいにしすぎないことは、私にとって重要でした。精神を病まないためにも。

完璧主義の友人を私は尊敬しますし、完璧主義も素晴らしい考え方だとおもいますが、私は自分自身が完璧主義でありたいとは思いません。それは私にはあまりに難しく、合わない考え方だからです。

勉強に対して努力に恵まれないことを考慮に入れろだとか、そういうことを「他者」に求めているわけではなく、ただ、「自分」に対しての言い訳になるように、自分を責めるのをやめるために、この考え方はわたしには必要でした。

どんなに頑張っても、人間には限界があるし、努力をしても、必ずしもそれが毎回報われるとは限らないのです。自分ができないことを、全てを自分のせいにして追い込むのは、私にとっては、とても疲れてしまうのです。「努力が苦手な中、私はできる限りのことはやった…もしかしたらそれでも今回のテストで良い点を取れないかもしれない。その時はその時。私はやるだけやったんだ。ならば思うように良い点が取れなくてもそれは仕方ない。」と自分の中で折り合いをつけるとだいぶ楽になります。

理由づけはなんだっていいと思うのです。他人に迷惑をかけなければ、自分の脳内なんて誰も知り得ないですし。宇宙人に集中できないように脳みそをプログラミングされているとか、そういう理由づけでいいと思います!完璧主義で自分に満足なさっている方はそれに越したことはないと思いますが、もし自分を責めすぎてしまう方がいらしたら、こんな風に、一度ゆるーく考えてめてはいかがでしょうか?お節介とは思いますが私個人の一意見です。合わないようでしたら流してくださいませ。皆さんが生きやすく、今日1日を過ごせますように。駄文・長文失礼しました。